江戸時代の町人の暮らしぶりを題材にいくつもの作品を生み出した井原西鶴は、伊勢商人のことを次のように語る。
「人の気をくみて商いの上手は此の国也」〈『日本永代蔵』より〉
「惣じて神職のかたはいふに及ばず、万の商人までも、伊勢は人にかしこき所を見せずして、皆利発なり」〈『西鶴織留』より〉
近世、江戸日本橋周辺で豪勢な江戸店(だな)を構え、一世を風靡した伊勢商人たち。江戸の経済を牛耳るほどの強大な経済力を持ち、現代までその力を持続させてきた伊勢商人たちの「商人(あきんど)パワー」は、いかにして生まれたのであろう。そして、この地域にどんな影響を与えたのであろうか。
そんな伊勢商人たちの素顔に触れ、そしてその才覚と出会うための資料館が三重県にはいくつか点在している。
江戸時代の流通経済の分野で、中心的な役割を担い、めざましい活躍をしたのが伊勢商人と近江商人であった。伊勢の国出身の商人は、他国の人から「伊勢商人」と呼ばれ、17世紀初期から江戸、大阪、京都の三大都市へ盛んに進出した。中でも徳川家が幕府を置き、近世最大の都市に発展した江戸へは、他国の商人に先駆けていち早く出店し、徳川第5代将軍・綱吉のころともなれば「江戸に多きもの伊勢屋、稲荷に犬の糞」という俗語さえ流行し、江戸中期の『落穂集(おちぼしゅう)』には、一町のうち半分は伊勢屋であると記されている。また、他国の商人からは「近江泥棒、伊勢乞食」と陰口されるほど、近江商人と共に際立った存在であった。伊勢商人の営む江戸店の特徴は、その経営組織にある。店を取り仕切っていたのは、支配人や番頭などの幹部従業員で、経営者である主人は伊勢の本家から江戸店の経営に目を光らせながら、収益を得て、遊芸や文化と趣味の世界を大いに楽しんでいたようだ。江戸店は、本家とは区分された独立採算の経営体となっており、その利益は毎年本家に上納されていた。このような経営組織を支えたのは、江戸店独特の雇用形態である。支配人から丁稚に至るまで、ほとんどの店員が伊勢の国出身者であり、地縁で結ばれた家族制度的な職場であった。
江戸時代に本家が伊勢の国にあり、江戸をはじめとする都市に店を持ち、店員が伊勢出身者である企業体 これが伊勢商人の定義である。
伊勢商人の江戸店は、日本橋(東京都中央区)周辺に集中しており、その数は約50店にも達した。この伊勢商人の出身地を地域別に見ると松阪、相可(多気郡多気町)、津、射和(松阪市)、若松(鈴鹿市)などが挙げられるが、出身地別に分類すると櫛田川流域グループ、松阪グループ、津藩グループ、白子港グループの4つにまとめられる。
伊勢商人の中で江戸進出の先陣を切ったのは、この地域の人々だった。櫛田川河畔にある丹生は、古くから水銀の産地として栄えた。水銀は櫛田川を利用して、下流の射和に運ばれて加工され、顔料や白粉(おしろい)、薬品となり、国内のみならず中国・朝鮮へも出荷されていたという。水銀産業は、元になる資本の蓄積と伊勢路を基点とする商業ルートの開発に大きく貢献した。射和の商人・富山栄定は、伊勢商人の先達として歴史にその名を留めている。
三井家、小津家、長谷川家など、多くの豪商を輩出した松阪は、伊勢商人の第二のふるさとである。戦国時代の武将で、松阪城を築城した蒲生氏郷は、ふるさと近江日野から商人を呼び寄せ、楽市楽座を設けて商業を保護し、商都・松阪の基礎を築いた。そして、粋好みの江戸庶民に大いにもてはやされた松阪木綿は衣料革命を巻き起こし、それを扱う松阪商人は隆盛を極めた。特に三井家の創始者・三井高利は、松阪木綿の呉服商「越後屋(後の三越百貨店)」を営み、三井財閥の基を築いた人物である。現金掛値なしの店頭販売という、当時としては画期的な手法で売り上げを伸ばし、井原西鶴の『日本永代蔵』の中でも大商人の手本として称賛されている。
慶長13年(1608)、藤堂高虎が城主となった津・久居の地では、川喜田家、中条家、田中家などの商家が江戸進出に乗り出し、その多くは木綿問屋であった。外様大名である藤堂家は、徳川幕府から軍事や政治面でにらまれることを極力避け、経済面を大切にする方策を取った。また、徳川家の側室で津の商家出身のお夏の方の存在も、見えざる後ろ盾となったと考えられている。
津と四日市の中間に位置する鈴鹿・白子港は、紀州藩直轄地としての特権を与えられ、ここを拠点として活躍した伊勢商人も多かった。伊勢名産の木綿の積み出しはもちろんのこと、大消費地・江戸への物資の集荷と回船で繁盛したのである。
また、伊勢形紙という友禅染めに無くてはならない独特の商品を生み出し、商人たちは紀州藩を後ろ盾にして、全国の市場を独占して活躍した。その経済ルートは、ほかの商人の活動にも大きく役立っている。
江戸の人口は、寛永年間(1624〜44)の初めには15万人ほどだったが、1世紀で約3.5倍に増加している。この繁栄には上方商人、とりわけ近江・伊勢商人の役割が注目されている。伊勢と近江は、共に東西交通の関門に位置し、古くから物資の流通と情報交流が盛んだったことは共通項としてあるが、その性格にはかなりの相違が見られる。ごく大ざっぱなまとめ方ではあるが、近江商人はおう盛な行動力、地域間の物産回しの巧みさで知られ、伊勢商人は大衆相手の薄利多売と地道な金融業が得意のようである。巨大総合商社の前身に近江商人、旧財閥系の大手銀行や老舗の百貨店の前身に伊勢商人が目立つのは、その名残りであろう。
駿河町にあった越後屋呉服店のにぎわいが伝わってくる。
大伝馬町の木綿織物問屋前を歩く芸者たち。
現在の上野松坂屋新館前から山下方面を見たところ。
伊勢商人の最初の旗揚げとなるのは、「櫛田川流域グループ」に属する射和の商人であった富山栄定。天正13年(1585)、小田原に呉服店を出店、それから7年後江戸に店を移し、江戸での伊勢商人の先駆けとなった。この富山家の江戸進出を皮切りに長井家、竹川家、国分家など射和の商人たちが先陣を切って、続々と江戸に集まり、慶長11年(1606)江戸大伝馬町の誕生と共に、ここに集結、店を構えた。その後、津の川喜田久太夫、田端屋治郎右衛門、松阪の小津与右衛門、長谷川治郎兵衛らも名を連ねた。彼らは主に、松阪を中心に産出される木綿を取り扱い、大伝馬町は木綿問屋の一大商業地となった。
特に、伊勢商人の中で特筆すべき人物、三井家の元祖・三井高利が日本橋本町一丁目に呉服店を開業したのが延宝元年(1673)であり、17世紀後半のこの時期、大伝馬町の木綿問屋の軒数は最大の74軒となり、そのうち伊勢商人が約半数を占めるという、伊勢商人の繁盛ぶりはピークに達した。大伝馬町を中心に日本橋かいわいは、伊勢商人の江戸店が百花繚乱、出そろった時期であった。
江戸の商業を牛耳る力を有した伊勢商人たちの商いのやり方として特徴的なことは、
(1)本店を地元に置き、江戸店は番頭・手代(てだい)に委ねる。
(2)江戸店で働く者は本家によって地元伊勢の者が採用され、一部上級幹部を除いて番頭以下起居を共にしていた。
この江戸店における資本と経営の分離(経営委託システム)とも呼べる方式が好結果を生むことになった。また、伊勢商人たちが商いをする上で信条としていた「3Sの徳目」 始末、才覚、算用の3つの信条が一貫して固く守られており、この伊勢人気質ともいえる商いの心得が、伊勢商人を豪商たらしめた根本にあったと考えることができる。
「始末」とは倹約に励み、ぜいたくをせず節約を旨とすることである。
「才覚」とは商売をする工夫、発明、アイデアを磨き、積極的な攻めの商売をやることである。
「算用」とは商売としての利益を生み出す計算力を養うことである。
この3Sを堅実に具現化しえたのが伊勢商人であったといえよう。
そしてもう1点は、鋭い時代感覚ということである。その代表的な人物は、江戸期の流通革新の旗手といわれ、その商法を高く評価されている三井家の元祖・三井高利である。三井高利は、従来の掛売り(後払い方式)、掛値のやり方から「現金売りの安売り」(薄利多売)方式を生み出し、一般庶民向けに引札(今でいうチラシ)を配布して宣伝するという新商法を打ち出して爆発的な人気を得た。このように、伊勢商人が近世経済に果たした役割は大きいものがある。しかしこの伊勢商人たちの“商いパワー”を生み出した源泉は、その堅実で実直な伊勢人気質であったということを忘れてはならない。
江戸時代を華やかに彩った伊勢商人たち。彼らは、商いを生業としながらもその利益を「文化人としての趣味」の糧とした者が多く、大淀三千風(俳人)、川喜田半泥子(陶芸家)、射和文庫を開設した竹川竹斎など多数の文化人を生み出した伊勢商人の世界の深さを、心に留めておく必要があるだろう。
『江戸名所図会』より。
三井家の堂々とした店構えが表現されている。
三井家発祥地となる三井高利の生家〈松阪市本町〉
三井家の始祖・三井高利
流通革新の旗手として注目された。
多くの豪商が名を連ねた松阪だが、ここでは小津清左衛門の邸宅を保存・公開し、松阪商人の知恵と文化を紹介している。20余りの部屋を持つ重厚な「主屋」をはじめ、かつて床下に埋設されていた千両箱ならぬ「万両箱」など、見どころは実に豊富。江戸時代に紙や木綿で財を成した小津家の商売手腕と、隆盛を極めた松阪商人の足跡が凝縮された資料館だ。
商人のまち・松阪を発展させたものといえば「松阪木綿」が思い浮かぶが、同館ではそれ以外にも射和(いざわ)地区で生産された「伊勢白粉」や、参宮街道沿いに店を構えた「薬種商桜井家」に関する資料が充実している。伊勢神宮の御師の手によって全国に広められた「伊勢白粉」の製造道具や、復元された「薬種商桜井家」の展示が、松阪の生い立ちを今に伝えている。
中世から近世にかけて、お伊勢参りは庶民の間に急速な広がりを見せ、特に慶安3年(1650)ごろから約60年周期で起こったといわれるおかげ参りでは、毎回200万人〜400万人に及ぶ参詣客が伊勢に押し寄せた。こうしたお伊勢参りの流行が、河崎商人を繁栄に導いた大きな要因となっている。河崎は勢田川に面し、その水運を利用した流通の拠点として、地元伊勢地区だけでなく大勢の参詣客のための物資を供給する“伊勢の台所”として大きな経済力を蓄積していった。その繁栄ぶりは明治、大正のころまで続いた。
この河崎商人の商いパワーの根底には、お伊勢参りに訪れる人々への“おもてなし”の気持ちと伊勢神宮への崇拝の心が息づいており、伊勢神宮との深い関係がそのパワーを支えているように思える。
河崎は外宮の北東に位置し、勢田川に沿って町並みが発達。近世、水運の拠点として米問屋や魚問屋などの問屋商人が多く店を構え、伊勢地区の物資を一手に引き受ける随一の商業地として栄えた。現在も伝統的な店構えを残す建物が多く見られる。
古くから勢田川の水運により栄えた伊勢・河崎地区には、昔ながらの町家や蔵が軒を連ねている。その拠点となる「伊勢河崎商人館」は、旧小川酒店を修復した母屋と3つの商人蔵などから成り立つ。観光案内所のある母屋では、商売に関する道具や資料を展示。一方の商人蔵には、アンティーク品や手作り品などを販売する、個性豊かな26の店舗が入っている。
伊勢河崎商人館
伊勢河崎商人館 商人蔵書
伊勢の歴史や文化に触れられる施設。第1展示室では、山田傘や萬金丹のほかに、日本最古の紙幣とされる“山田羽書”を展示している。これは商業が発達した伊勢山田地方で、秤量銀貨の釣り銭代わりに発行されたもの。第2〜4展示室では、ひょうたん秤や両替天秤といった商売にまつわる道具以外にも、足踏み脱穀機などの農機具も紹介されている。
伊勢市立郷土資料館
日本最古の紙幣とされる山田羽書
伊勢商人たちは、単に勤労実直型の商人であったというだけでなく、商いの根本である「算用」に秀でていたのも事実である。この三重県の地では、員弁郡東員町に生まれ、江戸時代に珠算の草分けとなった算術家・一色正芳(1747〜1821)が、農閑期を利用して100日間でマスターできる速算術を考案。そして、伊勢地方一帯で「正芳流百日算(伊勢百日算)」として寺子屋教育に組み込まれ、農民や町民の間に広く浸透していった。この「正芳流百日算」が、伊勢商人の知的素養として大きな力を発揮したといえよう。江戸店の経営を任されていた奉公人たちに課せられた帳簿記入や本家への決算報告など、高度な算用の能力が必要であったと考えられている
初代井上親亮(しんすけ)は、「正芳流百日算」をさらに進化させ、東日野町の自宅に、明治5年(1872)「伊勢百日算塾」を開き、多くの門下生を生み、明治以降の日本経済に大きく寄与した。
秤乃館は館長の秤屋健蔵氏が自費で収集した、計量と計算のための古今の用具が展示されている。
東員町が生んだ江戸時代珠算の草分けである算術家・一色正芳の功績を称える関連資料や、珠算に関する資料などを展示している。館長の原案による一色正芳の生きざまを描いた創作劇「珠の鳴る音」も、町民の手で上演されている。(見学は予約が必要)